TOMODACHI世代:齋藤尚
齋藤尚(さいとうなお)氏は2014 TOMODACHIサマー2014コカ・コーラホームステイ研修プログラムの参加者で、2015年4月からは山形県の東北芸術工科大学に入学します。
私の母について
私は福島で生まれ、育ちました。
震災があってからの高校三年間は、母とは離れて暮らしてきました。
今も一緒に暮らしてはいません。
私には2人の弟と1人の妹がいます。
福島の原発事故から9か月ほど経ってから、母は京都に私やきょうだいと自主避難しようとしましたが、私は福島に祖父母をおいて、友達とも離れて暮らすのは嫌だと大反対しました。そして私は福島の高校を受験し、祖父母と福島に残ることを決めました。
なぜ母がそこまで避難しなければいけないと言うのかわかりませんでした。
母は避難するまでの9か月間、自分で線量計を借りて、毎日のように放射線量を測って、メモをとって、、、原発再稼働防止のデモに参加したり。
どうしてそこまでするんだろう、と思いました。
震災前の母とはまるで別人のようで、嫌だなあと思いました。
高校生になって、京都にも時々、足を運ぶようになりました。
母は、福島の家のことをちゃんと考えていました。同時に、自分の震災の経験を伝えようと、大学で講演するなどの活動をしたりして、京都でも自身のコミュニティを広げていました。
一度だけ、母の名前で検索をしたことがありました。母が、どこかで講演をしたときの話が載っていました。放射能が私やきょうだいの体に与える影響を心配をしていることが読み取れました。そして、そこで初めて、母がしてきたことはすべて私たち子供のためなんだと気が付きました。
そんなの母親なんだから当たり前だ、と思われるかもしれませんが、母の原動力が私たちを守ることだったんだと気が付いたときは、自分の中でどこかひっかかっていた、もやもやのようなものが、すっととれた気がしました。
母は、福島にいる間もずっと原発や放射能について調べたり、そうして学び得たものを他のお母さん方に話をしてみたりしていましたが、「まだ、気にしているの?」「もう原発のことはいいんじゃない?」と、母なりの不安や思いを受け止めてもらいにくかったこともあったようでした。それがストレスにもなっていたんじゃないかと思います。
周囲の避難反対の声もある中、それでも私たち子供のことを考えて、母は避難を決意しました。
福島には、遠くに避難する親子も、避難せずに残る親子も、当然います。関東圏でも、放射能を気にして避難する方がいらっしゃるのだとも聞きました。それぞれの家庭や個人に、それぞれの理由があります。残るのがいいとか、避難するのが悪いとか、そういうことではないんです。
私は高校三年間、「復興授業」というものを受けてきました。震災後、高校が、私たちの代から震災についての授業をやろうと始めたものです。総合の授業時間を利用して、放射能についてや原発についての講演を聞いたり、グループに分かれて震災後の課題などを自分たちで調べ、解決策を考え、発表をしたり、様々な取り組みをしました。
そこでわかったことは、「福島の原発事故による放射能の影響は、わからない」ということでした。
原発事故があってから、私たちは学校ぐるみで「甲状腺検査」というものを受けています。「チェルノブイリ原発事故後に明らかになった健康被害として、放射性ヨウ素の内部被ばくによる小児の甲状腺がんが報告された」から、調べておこう、というものです。
「ガラスバッジ」という、首にかけておくタイプの、小型線量計なども配布されました。個人がどれだけ被ばくしたか、調べようというものです。
どちらも、検査を終えてから結果が自分の手元に届くまで、1か月ほどはかかります。
「甲状腺検査」で少し異常が見られても、「放射能による影響かどうかは定かでない」とされたりもします。
私は、自分たちが実験に利用されている気分でした。
調べて、異常があっても、生活習慣によるものもあるし、すべてが放射能によるものと断定できないならば、放射能ってなんなんだ?と。
だから、「わからない」んです。だから、いつどんな影響が出るのかすごく怖いし、不安です。「奇形児が産まれるかも」と聞いて、「私たち、ちゃんと赤ちゃん産めるのかなあ。」と女の子同士で話をしたこともあります。今も時々思い出して、怖くなります。
だから、避難をする・しないというのは、どっちもありなんだと思いました。
高校で「震災」関連について学べば学ぶだけ、母がしたことを理解できるようになりました。
母の仕事
避難してからしばらくして母は、京都で仕事をすることになりました。
今は「キッチンNagomi」というカフェで働いています。このカフェは、復興支援活動を展開されているNPO法人「和(なごみ)」が始めたもので、震災後、京都に避難してきた人と、もともと京都に住んでいる人が働く場所になっています。主に、避難者・移住者の就労支援を目的としています。
先日、京都に行く機会があり、実際にそのカフェに行ってみました。
そこは、働く人のほとんどがお子さんのいる「お母さん」でした。雰囲気がよく、居心地がよい場所で、母を含め、働いているスタッフさんたちも、いきいきといていました。
料理やお菓子作りが好きなお母さんが集まって、働いています。私の母も、看板に絵をかいたり、チラシをかいたりすることが好きで、楽しそうに仕事をしていました。
働く側に「お母さん」が多いので、お店も「お子さん連れのお母さん方」にやさしいつくりになっていました。
トイレにおむつ交換スペースがあったり、おもちゃや絵本で子供が遊べるスペースがあったり。
お客さん一人一人への対応も丁寧で、お客さんが「こうなったらもっといいな」というニーズを聞き出し、お店のメニューやスペースの使い方など、少しずつ変化させながらお店をよりいいものにしていこうとしていました。
また、お母さん同士だけでなく、避難者や移住者同士の語らいの場にもなっています。
働く人も、東北から、京都からなど、みんなそれぞれいろんな事情があってそこにいました。
そういった「語らいの場」というのは、福島・京都に限らず、家庭でも、職場でも、あらゆる場面で必要なものだと最近よく思います。
女性のリーダーシップ
社会進出の仕方も、様々だと思います。
社会進出のために欠かせないものは、「人と関わる」ことです。
女性だから、母親だから、子供だから、社会進出が難しいなんてことはないはずです。みんな、それぞれいろいろな形で社会に関わって生きています。
女性だからこそ、母親だからこそ、子供だからこそ、できることがきっとあります。
たとえば、私は、お客にとってもスタッフにとっても「お子さんを連れたお母さん方にやさしいカフェ」ってちょっと珍しいのでは?とキッチンNagomiに行ってみて思いました。
私がキッチンNagomiで出会った働くお母さんたちは、みんないきいきして見えました。
お客さんの中にもお子さんを連れたお母さん方が多かったですが、子供を気にせず、のびのびと食事を楽しんでいるように見えました。
それは、お母さんどうしが、お互いの苦労や思いを理解し合うことができているからではないかとおもいました。
だからこそ、私は「女性のリーダーシップ」、特に「お母さんの社会進出」というのは少子化が指摘される今の日本において、貴重ではないかなと思いました。
小さな子供を連れて出かけることは、大変なことです。
急に泣き出すかもしれないし、おむつを取り替えなくてはいけなくなるかもしれない。
周囲に迷惑をかけてしまうかもしれない。
キッチンNagomiは、そんな現状を理解し、打破しようとしているように見えました。
子供連れのお母さんたちも、周りを気にせず、気軽に入れる・くつろげるカフェ。
それがどんなものか、一番わかるのは「お母さん」です。
お母さんの視点から考えることで、お母さん方にとってやさしい場ができる。
自然と人が集まるようになって、お母さんたちのコミュニティが広がる。
そういった「社会進出」の仕方もあるのではないか、と思いました。
最後に
私は、昨年の夏、TOMODACHICoca-Cola ホームステイ研修プログラムに3期生として参加し、アメリカで2週間、いろいろな経験をしました。海外から日本を、自分の土地を見つめなおすきっかけにもなり、また、自分の未熟さにも気が付くことができ、自分自身を見つめなおすこともできました。海外から学ぶことも多かったです。
しかし、私がこのプログラムに参加することができて何よりもよかったと思うのは、素晴らしい仲間がたくさんでき、自分にとってきっと一生の財産になる「繋がり」ができたことです。
その繋がりがきっかけになって、先日、阪神・淡路大震災を学びに、神戸まで足を運ばせてもらうことができました。関西には「観光」として何度か足を運んだことはありましたが、「学び」として行くのは初めてでした。そして、関西に行って、あんなに有意義な時間を過ごしたことはかつてなかったです。
おかげで、関西でもまた「繋がり」ができました。
自分のコミュニティ・ネットワークを広げることは、何より財産になるものだと改めて気づかされました。
このような経験をさせてくれたすべての方への感謝の気持ちを忘れずに、
今まで得た「学び」や「繋がり」を、今後の活動に活かしていきます。