TOMODACHI世代:田畑祐梨
田畑祐梨 (たばた ゆうり)
日本大学 大学2年生
2015年11月9日に東京で開催した、米日カウンシルアニュアル・カンファレスのTOMODACHIレセプションで以下のスピーチを850名ほどの参加者の前で行いました。
みなさん、こんばんは。TOMODACHIアラムナイの田畑祐梨です。私は仙台から車で2時間の沿岸の町、南三陸町が故郷です。現在は日本大学で、異文化理解について勉強しています。
2011年3月11日は中学の卒業式の前日でした。いつも通りの1日になるはずでした。しかし津波で家は流失、大切な恩師を亡くしました。避難所での生活は夏まで続き、なぜ私はこの町に生まれてしまったのかと思った事もありました。そんな絶望の中で私を励ましてくれたのは、世界中から届く多くの手紙や、段ボールの側面いっぱいに書かれた暖かいメッセージでした。それらを読み、いつか感謝の思いを直接伝えたいと思うようになりました。
そして、高校2年生の冬、私はTOMODACHIに出会いました。私が参加したのは、3週間アメリカでホームステイをする、コカコーラ社協賛のプログラムでした。その作文選考で「アメリカでなにをしたいか。また帰ってきたらなにをするか」と問われました。私には、感謝を伝えたい思いはありましたが、帰ってからの事は何も考えていませんでした。その時はじめて一番身近な南三陸の復興について考えはじめたのです。
震災から2年が過ぎようとしているのに町の復興は、一向に進んでいませんでした。その姿を見て、「おとなは何をしてきたんだ」と憤っていました。しかし、その問いのおかげで、自分はなにも行動せず、大人に責任を押し付けていただけだと気づくことができたのです。
そして、自分にできることを探し、好きなおしゃべりを活かして震災体験を語る「語り部」という活動を始めました。若い世代に向けた「語り部」と、外国の方へ向けた英語での語り部を始めました。そこでアメリカで英語を学び、日本での活動に活かしたいとおもいました。そうしてわたしはアメリカへの切符を手にしたのです。
それまでの私の未来は、女手一つで育ててくれた母の美容室を継ぐことだけでした。社会は女性に厳しく、限られた職業の中から選ぶしかないと思っていましたが、アメリカで、女性が活躍している姿や自分が見つけた社会問題を解決しようと行動している人たちに出会いました。
とても狭く無知な世界からTOMODACHIが私を連れ出してくれました。私はこうして次世代を担うリーダーとして歩み始めました。今の私の夢は、故郷、南三陸町の子供たちに、国際交流の機会を提供することです。都市部と地方で国際交流などの機会に差があることは、今の日本の大きな問題だと思います。TOMODACHIが私にチャンスをくれたように、私が彼らに世界に触れるチャンスを提供したいです。
現在も私は「語り部」の活動を継続しており、世界中の3万人近い人たちに震災の体験を伝えてきました。そして、もうひとつTOMODACHIアラムナイとして、「TOMODACHI女子高校生キャリアメンタリングプログラムin福島 2015」にメンターとして参加し、高校生の学びをサポートしています。これは、ローソンとファミリーマートの支援により設立された「TOMODACHIコンビニ基金」がサポートしている、半年間にわたるキャリア教育プログラムです。参加者たちは高校時代のわたしとおなじように悩み、もがき生きている中で、TOMODACHIを通して多くの素敵な人々に出会い、自分の世界を広げています。
私と同じように夢や希望をもらったTOMODACHIアラムナイ4,000人の代表として、私は今日皆様に感謝を伝えにきました。これからも次世代の若者に夢と希望のバトンをつなげていってください。ありがとうございました。
田畑祐梨氏がTOMODACHIプログラムでの体験について話しました。
2011年3月11日、私は中学校の卒業式の前日でした。これから高校に入学し、新しい生活が始まるというときに、震災が発生して家は津波で流失し、生まれ育った町がなくなり、すべてに絶望しました。そんな中で私を励ましてくれたのは、世界中から届けられる暖かい支援でした。支援物資を仕分ける作業をしていた私は、世界中から寄せられる支援を毎日のように感じました。支援への感謝の思いを何らかの形で伝えたい、と思うようになりました。高校二年生の冬、TOMODACHIサマー2013コカコーラ ホームステイ研修プログラムの募集を見つけたときに、すぐに応募しました。
プログラム中に私はたくさんのことを学びましたが、一番印象強かったのは自分が英語を話せないことでした。ホストファミリーはとても優しい年寄りの夫婦で、毎日楽しい時間を過ごすことができました。しかし、彼らが話していることは分かっても、私は自分から話すことができなかったのです。
私は帰国してから、なぜ自分が英語を話せなかったのかを考えるようになりました。その時、小さい頃から英語を習っていたのに、実際に話したことはなかったことに私は気づいたのです。都市とは違って、地方で国際交流できる機会はほぼありません。大人になるにつれて、英語というツールは必要になります。地方の子どもたちは、早いうちに英語を学ぶ機会がないと将来の夢に影響が出るかもしれません。子供のころから様々な国の文化に触れることで、「英語楽しい!」「もっと話したい!」と思ってもらうことが大切だと私は考えました。
そこで、私は将来「Chance House」というツリーハウスを作って英語を使う機会を設けます。Chance Houseは宿泊施設であり、教科書から学べないものを自然に囲まれて仲間とともに学べるようなプログラムを提供します。私の住む南三陸のような地方の子どもたちのためには、外国の子どもたちと仲を深める国際交流のプログラムを作りたいと考えています。また、外国の子どもたちには日本文化を学び、スポーツを通して日本の子どもたちと交流を深めるプログラムを作ろうと思います。そして、日本の都市部の子どもたちには普段味わうことのできない自然を感じてもらうプログラムを作ります。また、どのプログラムにも防災・減災についての話は必ず取り入れるつもりです。
外国の子どもたちと日本の子どもたちは、お互いと交流をするときに言葉が通じないことを不便に思うかもしれません。しかし、スポーツという万国共通の言語を使えば、仲間と絆を深めるとともに、「どうしたら伝わるか」について考えることもできるでしょう。都市部の子どもたちには、自分で育てた野菜を食べたり、自分で釣った魚を食べたりして遠かった自然を身近に感じ、 “命”の大切さを学んでほしいです。そして、これからの世界を担う子供たちの防災意識を向上させ、これから東日本大震災のようにたくさんの大切な人が亡くなることがないようにします。私は子供たちに“きっかけ”を提供したいのです。「英語を学ぶきっかけ」、「友達を作るきっかけ」、「心と心で話すきっかけ」のChance Houseを世界中に作り、世界中の子どもたちをつなげることが私の夢です。