TOMODACHI世代:プリシラ・トーレス
プリシラ・トーレス
ロヨラ・メリーマウント大学 3年生
TOMODACHI イノウエ・スカラーズプログラム
2015年の夏、私はTOMODACHI イノウエ・スカラーズプログラムの奨学生として日本を訪問しました。メキシコ系アメリカ人一世の大学生である私にとって、このプログラムのおかげで今までの自分には想像もできないような経験をすることができました。
TOMODACHIでの経験は、私が幼少期から抱いていた教育の重要性と感謝の念をさらに深めてくれました。私が小さかった頃、毎週日曜日には母とロサンゼルス東部に住む祖母の家によく遊びに行っていました。祖母は毎週いつもロサンゼルス・タイムズの記事をいくつか選び、私に読ませていました。それから私たちは、それらの記事について互いに意見を述べ合っていたものです。大抵話題に上るのは、将来私が関心を持てるよう政治や国際情勢などの時事問題が中心で、私自身の好奇心を育んでくれました。
私の家族は、私の教育をいつも一丸となって支え続けてくれています。私が2週間日本に行くことを伝えたとき、彼らは驚いた様子でしたが、同時に大変誇らしく感じたようです。私のような多くの移民一世の大学生にとって、今まで私たちが成し遂げてきたことは個人だけで成し遂げたものではなく、それと同時に世代を超えた各人の長年にわたるひたむきな努力と犠牲の集大成です。そして大学卒業に至るまでの経験は、単に自分自身だけのものではなく、過去と現在にわたる親族たちと分かち合っているものなのです。例えるなら、このTOMODACHIプログラムに、私は家族全員の今までの人生、彼らの葛藤そして成功を背負って参加していたとも言えます。
ロヨラ・メリーマウント大学が参加したTOMODACHI イノウエ・スカラーズプログラムはリーダーシップとダイバーシティ(多様性)に焦点を当て、プログラムに参加している学生たちにとりわけてユニークな個性をもたらせるようにデザインされています。私はこれから親友になりそうな同じ大学の学生たち、そして私の大学生活やこれからのキャリアに最も影響を与えることになるであろう、カーティス・ルークス博士とマリア・グランドン博士と共に2週間日本を訪れました。私たちは共に、うまく表現することは困難ですが、人生観が変わるような経験をすることができました。私は到着してすぐに何かを期待するような、そんな先入観は持っていませんでした。ただ私は常に一人の人間として自らの可能性を追い求めてきましたが、TOMODACHIは自分の限界を超えることができるように、私の背中を押すと同時に世界観を広げてくれました。
東京を訪問中は、私は光栄にも他のTOMODACHI プログラム参加者たちと国会を訪れ、衆議院議員の牧島かれん氏にお会いすることができました。彼女は私たちに、日本の政界において女性であることの意味や、女性の衆議院議員として耐えなければならなかった困難について、お話し下さいました。彼女の出馬への決意は日本女性の声を届け、彼女たちを代表したいという責任感からきています。心の中で米国の故イノウエ上院議員が耐えなければならなかった困難、軍での彼の信じがたいほどの奉仕、家族の強制収容、そして祖国への貢献のために最終的に政界への進出を決めた彼の決意に思いを馳せ、二人の政治家の勇気と強靭さに圧倒されてしまいました。第二次世界大戦後、イノウエ上院議員は、戦争を生き延びた彼の命はもはや彼自身の為のものではなく、個としての自分よりもはるかに大きいもの、すなわち祖国アメリカの人々、特に日系アメリカ人コミュニティのものであると強く信じていました。イノウエ議員は、政界において祖国に奉仕し、日系アメリカ人の利益を代表することこそ、彼の使命であると信じていました。彼の目指した、市民に対して責任を持つという共通した一筋の想いは、私の日本滞在中に始終繰り返し沸き起こり、刺激を与えてくれました。
広島では、街を一望できる丘にある広島市デジタル移民博物館を訪問しました。同博物館は、年配の男性が館長を務め、奥様、お二人の娘さんで運営されています。彼は私たちに戦争の話や、ハワイへ移住した日本人について話してくれました。彼は当時の生活の様子を示そうと、1940年代から残るものを私たちに見せてくれました。奥様と娘さんは、私たちのために日本式の茶会を開いてくれました。私たちのグループはこの館長や彼の家族と大変親しくなることができました。私たちは、彼を「おじいちゃん」と呼び、再訪を誓いました。その後、レストランで夕食にカツ丼を食べたのですが、私の人生の中で最も美味しいカツ丼でした。シェフにとって、メニュー自体が芸術作品であり、最後の一皿一皿までも色鮮やかでした。食事の最後に、シェフは料理について話をしてくれ、彼の奥様と息子を紹介してくれました。その日、私たちは自分の家族の延長のように接してくれる二組の家族に出会うことができました。彼らの責任を持って自分たちの文化を示そうとする姿勢や、おもてなしの心はとても謙虚なものでした。
数日後、私たちは広島平和記念碑を訪問しました。この時点で、TOMODACHIプログラムの参加者である私たちはすでに日本の人々を理解し、そして大好きになっていました。私たちは出会った二組の家族だけでなく、宮島の周りを案内してくれた安田女子大学の学生や数えきれないくらい沢山の上智大学の学生と大変仲良くなりました。広島平和記念資料館を見学した際に、私は畏まった気持ちが湧き上がるのと同時にショックを受けました。何がこのようなゆゆしき行為を国家に強いるのか私には理解できませんでした。私はどうしても写真を撮ることができませんでした。私は、ただなぜだろうという想いと、今までに感じたことのない気持ちになりました。それは、自分とはまったく無縁なことに対する罪悪感であり、自分の国が一度ではなく二度も行った行為に対する不信感です。今までの人生で私はここまで強く自分がアメリカ人であることを意識したことはありませんでした。
広島平和記念碑を訪れた後、私たちは原爆生存者の女性から直接お話を伺う機会がありました。爆弾が投下された際、彼女がどのような学生だったのか、そして受けた傷や、亡くなったご家族、ご友人についてお話頂き、人生の中であれ以上の恐怖はないと語って下さいました。その間通訳の方が同席していましたが、たとえ通訳がなく、私たちに語りかける彼女の言葉を私たちがほんの少ししか理解できなかったとしても、会場は涙で包まれていました。彼女が伝えた想いは、私が今まで目にしたものとは全く異なっていました。話の最後に、次世代のリーダーとして、私たちにはこのようなことを二度と起こさないよう最大限努力する責任があると託されました。私はこの言葉を生涯忘れないと思います。
私は今、ワシントンD.C.の米国連邦議会でインターンをしながらこのメッセージを書いています。TOMODACHIでの経験や牧島衆議院議員、故イノウエ上院議員の影響が現在の私につながっていると思います。TOMODACHIでの経験によって、私の好奇心はさらに高まり、そして非常に複雑な両国の関係と文化を理解するなかで、未知のものごとを人生の中に受け入れられるようになりました。原爆生存者の彼女から課せられた、私たちの使命について考えない日はありません。世界が私をどこに導くのか、そして私の犠牲、成功、困難が私の家族の次世代をどこに導くのか、まだ分かりません。しかし、私がこの世界で何をするのかに関係なく、TOMODACHIでの経験は人生の中で最も大きな変化を起こしてくれたと確信しています。私の中に日本文化への深い関心を根付かせ、その関心をさらに高め、そして日米関係や日系米国人を支援することの重要性や、人間として互いを守りあう責任をTOMODACHIが教えてくれました。