プログラム参加者・TOMODACHIアラムナイに聞いてみました!:林葵衣氏
林葵衣氏は、TOMODACHIサマー2017ソフトバンク・リーダーシップ・プログラムのアラムナイです。現在、立教大学観光学部観光学科にて、経営や計画、行政など、様々な側面から観光の在り方を学び、未来を牽引するリーダーを目指しています。とりわけ、宿泊施設について興味を持ち、ラグジュアリーホテルや旅行代理店での長期インターンを通して、非日常空間での滞在が人々に与える影響について研究しています。
今後は、人とより深く関わる環境に身を置きながら人脈を築き、将来的には、旅行や宿泊などの観光にイノベーションを起こし、世界で活躍することを目指しています。
林氏は、高校3年時にアラムナイ対象のプログラムであるTOMODACHI世代 グローバル・リーダーシップ・アカデミー2019に参加しました。大学3年生となった今年、「意思決定がつくる未来~いま、東北を実況するなら~」と題された同プログラムに再度参加することで、改めて震災について振り返り、東北出身アラムナイとしてのアイデンティティを見つめ直すきっかけになりました。
今回のアラムナイハイライトでは、東日本大震災に関する同氏の体験談をお届けします。
閲覧注意:2011年3月11日に発生した東日本大震災に関する以下の体験談には、トラウマになるような出来事や怪我、心の傷に関する記述など、一部の方にとって刺激となり得る内容が含まれています。米日カウンシルは、この出来事が、日本国内および海外の方々に今もなお様々な形で影響を与え続けていることを認識しています。この記事は非常にデリケートな内容であり、一部の方にはお読みいただくのが難しい可能性がございますが、当時の出来事が風化されないことを祈り、本記事をお届けいたします。読者の皆様には、ご自身の心身の健康をご優先いただきますようお願いいたします。
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TOMODACHI世代 グローバル・リーダーシップ・アカデミー2021の1日目、2日目が終了しました。
わたしはこの2日間で想像以上に2011/03/11/14:46を振り返りました。この2日間、「感想」では賄いきれない程のインプットやアウトプット、互いが信頼し合うからこそ生み出される深いコミュニケーションを通して、久々にTOMODACHIに戻ってきたことを実感しました。
わたしにとってここは確実に、特別なHOMEであり、FAMILYです。久々に顔を見るTOMODACHIサマー2017ソフトバンク・リーダーシップ・プログラムの6期生、皆それぞれに大人になって、光を放っていて、わたしももっと頑張らなきゃな〜!と背筋が伸びました。
まだまだここからファイナルプレゼンに向けて練ることは山積み、グループメンバーとも国境を超えていいものを作りたいなと思います。
その中で、あれから本当に10年の月日が流れてきたということ、あの瞬間を知らない人の方が多くなっていること、私は、守られるべき被災した子供という立場から、この体験を語り継ぐ役割へと変わってきていることを実感しました。
ここからは、私の心を整理する記録のようなものです。おそらくわたしは軽いパニック障害を抱えていて、震災を口で語ろうとすると顔は笑っていても勝手に涙が出てきたり、呼吸が浅くなって言葉が操れなくなったりする。でも私は伝えたい。だから、あの日からの私が何を体験し、考え、これまでの10年間を生きてきたのか、文字に起こしてみようと思います。
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小学4年生、10歳だった私は帰りの挨拶をするために椅子から立ち上がったところでした。突然、頭の上からブラウン管テレビが降ってきて、机の脚を必死に掴みながら怯えることしか出来ませんでした。そのうち、きゃー!とか、助けて!とかは聞こえなくなって、お母さんお父さん今までありがとうとか、まだ死にたくなかったよ、もっと生きたかったよ、とかそんなことを皆で泣きながら言い合った記憶があります。
当時私の父は、私の通う学校に勤めており、避難を促すため各教室を回っていました。私の教室にもやってきて、大丈夫だから、ちゃんと逃げなさいと声をかけてまた走って行きました。
私が次に父に会えたのは、その数日後、何度も探し回った避難所の名簿の前でした。
なんとか逃げ出た校庭は、亀裂が入り半分に割れていました。学校の近くに住んでいたおばあちゃんが、頭から血を流しながら助けを求めてきました。私は頭が真っ白になって、ぼーっと立ち尽くし、ずっと泣き止まない友達の手を握ることしか出来ませんでした。
そのうち、私たちの並んだ列は一斉に動き出しました。なぜ走っているのか、どこへ向かっているのか、何もわからず、ただ体の大きなクラスメイトが坂を登る速さに間に合わないのをみて、必死に重い背中を押しながら進んだ記憶があります。
高台に着く頃には雪が降っていました。祖父と祖母を見つけ家に帰ろうとしたとき、手を繋いでいた友人にはまだ迎えがありませんでした。あおいちゃん行かないでと離さなかった手と、泣いていた姿を私は今も忘れられません。そのあと彼女がどうなって、今どこで何をしているかも知らないけれど、きっと幸せでいてくれることを祈ります。
家に着くまでの道のりは、車が通るのがやっとなくらいに瓦礫にまみれていました。とにかくお腹が空いて、祖母のくれた柿の種を食べました。その日、母に会うことは出来ませんでした。
幸いその夜は祖母の家で布団を並べて横になることができました。数分おきに余震が来るので、窓ガラスがガタガタと揺れて、恐怖で寝れるわけがありませんでした。
明け方、外から母の車の音がして飛び起きました。母は、知り合いの先生を二人連れて帰ってきました。その頃、かすかに町内放送が流れ続けていました。反響で何を言っているのかさっぱり聞こえなかったけれど、とにかく非常だということはわかりました。
兄と私は母の車に乗せられ、避難所へと向かいました。その道のりは眠っていたのか、あまり覚えていません。ふと目が覚めると、外に白い防護服をきた人たちがぞろぞろと歩いていました。それはそれは、不思議な世界でした。コロナで人々が一斉にマスクをつけ始めたとき、電車から出てくる人がみんなマスクで顔を覆われているのを見て、激しい吐き気と寒気を感じたのは、無意識にもこれを思い出したからなのかもしれません。
避難所に入ると薄い何枚かの毛布と、3人で1本の水と、べちゃべちゃのおにぎりが渡されました。それを兄が半分に割って、大きい方をわたしにくれました。きっとお腹が空いていただろうに、今も誰より妹思いの兄です。
そのあと、代表者の方は集まってくださいと声がかかりました。しばらくして母が持って帰ってきたのは黒い粒状のヨウ素剤でした。私たちは一粒ずつそれを飲みましたが、そのとき母は、静かに泣いていました。私たちの隣には、小さな赤ちゃん連れがいました。そのお母さんも、泣きながらその薬を潰して粉にし、赤ちゃんに飲ませていました。その子も思えばもうあの時のわたしと同い年なのですね。周囲のコンビニに食べ物はなく、母の車にあったチョコレートを少しずつ食べました。
次の日の早朝、父を探すために私たちは車に乗りました。知る限りの場所で張り出された名簿を一つずつ見て回りました。途中で会う知り合いにも話を聞きながら、繋がらない携帯に電話をかけ続けていると、奇跡的に父と再会することができました。
あのとき両親が生きていてくれたこと、体験したことのないような非常事態の中で、最後まで使命を尽くすため、困っている人たちのために走り続けた姿を、わたしは今も誇りに思いますし、尊敬しています。
その後は知り合いを頼って栃木県、埼玉県へと移りました。当時は【絆】という漢字が何度もテレビで放映されていました。毎日毎日、絆きずなキズナと書きました。わたしは当時、将来は記者になりたいと思っていたのでその日から毎日ニュースを見ては記事を書きました。ニュースに怒りを感じたことも、悲しみを感じたことも、あの時の言葉で全部残っています。今もそのノートは実家に眠っていると思います。見返すと身体ごと当時に戻るようで、今もあまり手に取ることはありません。
結局、その後1年間は埼玉県で暮らすことになりました。両親は県外派遣されていたため、土曜と日曜しか会えませんでした。小さなアパートを借りて、従姉妹のお姉ちゃんたちと祖父母と生活をしました。40度近い気温の日にエアコンが壊れて暑くて眠れなかったし、従姉妹はダンボールを机にして受験勉強をしていました。今思えば、彼女は信じられない根性の持ち主だったと思います。
埼玉での1年間は、本当に支えてくださる友人、先生に出会い、幸いにも幸せに過ごすことができました。1年が経つ頃、私たち家族はもう一度同じ屋根の下で暮らすために福島に戻る決断をしました。わたしは反抗したけれど、当時の担任の先生に、君ならどこでも絶対に大丈夫、やっていけると背中を押してもらいました。
転校初日、それは地獄でした。始業式の列に並んだわたしはまるでバイ菌でした。同じ被災地に戻ってきたはずなのにどうして、こんなところに毎日通うのかと思うと寒気がして、震えが止まりませんでした。家に帰り毛布にくるまって母の帰りを待っていると、母はわたしを強く抱きしめました。一週間後同じことで悩んでいたらもう学校なんて行かなくていい、風のように誰にも見えなくても絶対に必要なものになりなさい、と言いました。
次の日、わたしはある女の子に話しかけられました。「もし良かったら友達にならない?」12歳の私にはどんな言葉より嬉しいものでした。彼女は先日、大好きな彼と婚約したそうです。出会った頃から体が弱く、何度も悩まされていた彼女の本当に幸せそうなメッセージに涙が出ました。絶対に絶対に、幸せになって欲しいです。
小学6年生のときは、いじめられて全部が嫌になっていました。合唱に夢中になりましたが、それもつらかったです。泣きながら毎日過酷な練習について行きました。膝が曲がらなくなるくらいずっと立ちっぱなしで、飲み物も食べ物も制限していたけれど、会場が自分たちを包み込む感覚は何にも変えられませんでした。大会で本当に僅差で敗れてしまったときは悔しかった。でも、わたしをあの場に引っ張ってくれた先生にも、特別な感謝を申し上げたいです。
卒業式はわたしがピアノを伴奏しました。今だから言えるけど、オーディションで選ばれたときは、全てに勝ったんだと思いました。いじめてきた奴も、見下してきた奴も、全部わたしのピアノがなかったら歌えないんだと、心の底からやってやったぞ、と思いました。
同じ年に、赤十字の支援でひとり北海道に行きました。旅に出ると、なんとなく生きていけるような気がするんです。
中学ではどうしても合唱部を作ることは困難だったため、クラリネットを手に取りました。部は決して強くは無かったけれど、やっぱり皆で一つのものを作るという感覚に魅せられていました。何より、それが一番孤独を感じないでいられるものだったのかもしれません。
私の恩師である、塾講師のおかげで無事志望校に合格した私は、憧れの吹奏楽部に入ることができました。同期にも恵まれ、絶対全国で金取ってやる!と意気込んでいました。生活の全ては吹奏楽、なによりも吹奏楽でした。レギュラー争いでは口から血を出しながら練習したし、その甲斐あって切符をいただくことができました。しかし、厳しい組織の中での人間の衝突、誰より信頼していた指揮者の解雇など私の「吹奏楽をやる意味」は崩れていき、メンタルは限界を迎えました。
本当にゼロになりました。部活をやっていたときは授業なんて全部体力温存の時間だったし、そのときは、私にはやるべきことがある、という実感が欲しくて必死でした。夢なんてなくて何とかなるだろうと思っていました。
私はどうしたらいいのかな、何もない砂漠に立たされているときにTOMODACHIに出会いました。これしかないと思った。両親はゼロになると何処かへ行きたがるわたしを理解してくれていたし、結局背中を叩いて送り出してくれました。
渡米した日、わたしは17歳の誕生日でした。私はワクワクしてたまりませんでした。海を越えたところには何があって、どんなものがあって、どんな人に出会うんだろう。
渡米してからの私は99人の仲間に出会いました。東北という共通項をもつ私たちは、性格こそバラバラだったものの、共に泣き、笑い、かけがえのない時間を過ごしました。
そこでは、それぞれが歩んできた人生、思い、価値観、そして東北や自分たちの生きていく未来について、寝る間も惜しんで語り合いました。わたしはその時、本気だからこそ起こるぶつかり合いがあること、それを恐れる必要はないことを学びました。
そしてなによりも、どんなことだって受け入れる、だから話して!と大きく手を広げてくれる場所があることを知りました。そこに、あなたはかわいそうだから、という目でわたしを見る人は誰一人おらず、辛いなら半分にしよう、一緒に考えようと言ってくれる仲間がいました。彼らとともに考えた未来の東北は、絶対に諦めない強い気持ちと、前向きな希望に満ち溢れていました。あの時出会った仲間たちは、今も私が悩んだとき、立ち止まったときに自信をくれます。諦めず、本気で向き合えばどんな天才よりも素敵な解決策を見つけられると教えてくれます。
また、そこにいた大人たちは皆、今まで私が出会ったことの無かった輝きを放っていました。東北のために、私たち高校生のために、何ができるのかを必死に考え、伝え、向き合ってくれました。思春期で、「大人」というものに対して漠然と不信感を抱いていた私にとって、どこかで必ず見ていてくれている信頼できる大人がいる、そう教えてくれたのが彼らでした。今でも彼らは私の目標であり、理解者であり、相談相手です。
TOMODACHIサマー2017ソフトバンク・リーダーシップ・プログラム6期の経験の中でわたしは、仲間との関わり方、信頼することの素晴らしさ、そして、繋がりの重要性を学びました。この経験を経てわたしは、強くあるための原点を得ることができました。今後は、東北はもちろん、世界に向かって私らしく羽ばたくことで還元したいと思っています。
TOMODACHI世代グローバル・リーダーシップ・アカデミー2019の参加者と共に(本人は左から3番目)