TOMODACHI世代:山本光輝
山本幸輝氏は現在東洋大学1年生です。彼は東日本大震災後、福島第一原子力発電事故により、現在も全域が避難指示区域となっている福島県浪江町出身です。
山本氏は「TOMODACHIソフトバンク・サマー2014リーダーシップ・プログラム」に参加し、視野が広がり、地域を活性化することの重要性を学びました。帰国後、プログラムから戻ってからは、「20年後の浪江」というワークショップを主催しました。11月15日、シリコンバレーで行われた米日カウンシル・アニュアル・カンファレンスのTOMODACHIワークショップで、山本氏は自分のストーリーを参加者と共有しました。
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2016年米日カウンシル アニュアル・カンファレンスでTOMODACHIワークショップのスピーカーとして参加しました。彼のスピーチは以下のとおりです。
東洋大学1年の山本幸輝です。私の故郷浪江町は、は福島の原発から2マイル、約3.2キロにあります。大震災後、私は町での生活という日常を失ってしまいました。
大震災の翌日、両親に起こされました。まだ朝の早い時間で、サイレンが鳴り響いていました。避難を促すサイレンでした。すぐに家に戻れるだろうと思っていたので、私は何も持って出ませんでした。父は震災の対応に行かなければならず、母と2人だけで家を後にしました。
3日後、別の原発が爆発し、もう一度、避難するように言われました。
転校を余儀なくされ、2度と家に戻れないと理解しました。私はその時、14歳で他の町に住んだ経験はありませんでした。このような状況になってしまい、私は原発事故を責めました。そして思ったのです。
「なぜ、僕なんだ?」と。
そんな中、2014年、TOMODACHIソフトバンク・リーダーシップ・プログラムに参加しました。3週間のプログラムで、私は地域を活性化することの重要性を学びました。しかし、もっと重要だったのは、私自身が浪江町出身だと公に話せたことです。それまでは、差別を恐れて、話すことができませんでした。プログラムに参加して、私自身の体験について話をする時間と機会を頂きました。また、同じ東北地方の同年代の仲間と出会い、町の思い出について(震災後)初めて分かち合うことができたのです。
TOMODACHIプログラムの期間中、浪江町で行われていた歴史あるお祭りの思い出を他の人たちに話しました。その時、突然、はっきりとしたのです。地域を活性化し、私の町を支援していくこと、これこそが私がしたいことだと思ったのです。今は、戻ることができなくても、文化を継承し、他の人たちと分かち合えるように貢献したいと思います。それは、浪江町のためだけではなく、私自身のためでもあります。
日本に戻ってから、高校生に未来の私たちの町について一緒に考えてもらおうと、「20年後の浪江」というワークショップを主催しました。自分以外の高校生にも、私たちが生きていく未来について、気持ちや考えを共有してもらいたいと思ったのです。私は今はっきりと実感しています。浪江町と福島の話を日本の他の地域の人たち、そして、できれば世界中の人と分かち合うことが重要だということを。故郷に戻るという希望を持って、地域を再建しようとしている人たちが、今もいることを、どうか忘れないでください。私のところにきて話をしてください。私の考えをお話しできれば光栄です。そして、あなたの考えをぜひ、聞かせてください。
ご清聴ありがとうございました。